【奥州街道】 

 徳川家康は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に勝利し、天下人となり「五街道」の整備に順次着手し、奥州道中は慶長7年(1602)から取り掛かりました。但し、五街道に制定された奥州道中は青森迄ではなく、下野國白河迄です。
 五街道は幕府の道中奉行が直接、管轄した街道です。
 白河以北の街道は仙台藩、南部藩が管轄、整備した奥州道中なのです。家康の死後,その亡骸が日光に移されてからは江戸日本橋から宇都宮間は「日光道中」と呼ばれるようになりました。奥州道中は日本橋から宇都宮迄は日光道中を踏襲します。
 宇都宮から白河間を奥州道中と呼ぶようになりました。

 (奥州道中と日光道中)
 家康が当初、「五街道」の整備に着手した時の奥州道中は江戸日本橋から宇都宮宿を経由して白河に至る道筋を指しました。そして日光道中はこの奥州道中の宇都宮宿から鉢石宿間の道筋が日光道中とされました。元和3年(1617)日光東照宮が完成すると、日本橋と鉢石間は日光道中となり、宇都宮と白河間が奥州道中と逆転しました。


第2日目
(自宅)→喜連川→佐久山→太田原宿→(自宅)

月 日;

2011年5月17日(火)、天気;晴れ一時小雨

区 間; 喜連川〜大田原宿、18.0km
時 間; 6時間48分
費 円; 14,020円
(内訳)小田急ー北千住440円、北千住ー東武宇都宮1,380円、宇都宮ー氏家 320円、東野(とうや)バス 510円、ホテル清水屋 7,100円、焼きソバとオデン400円、ドリンク600円、バス360円、JR(西那須野=東京)2,520円、京王バス390円

歩 数;

34,726歩


5月16日(月)晴れ
05:30 自宅発
この日、新栃木駅近くにある「真名子カントリークラブ」でのゴルフに参加。その後に宇都宮方面へと向かう
17:55

JR氏家駅着
途中、宇都宮では駅の近くにある「みんみん」という餃子専門店で餃子2人前を食べる。うまーい!
氏家駅の近くビジネスホテル清水屋にチェックイン

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
5月17日(火)晴れ一時小雨
07:00 ホテル清水屋発
07:45 JR氏家駅前発 東野(とうや)バス
08:00 喜連川本町バス停着
  【喜連川宿】(きつれがわしゅく)<栃木県さくら市>
 天下人となった徳川家康は、武家の名門である足利家の流れをくむ喜連川足利家(国明の次代頼氏から喜連川氏に改姓)を重視し、喜連川藩を創設したうえで四千五百石(後に五千石)に加増、さらに十万石の大名家の格式である左馬頭を名乗ることを認めた。その上、参勤交代を免除、藩主の正室も喜連川に住むことを認めた。これは、武家の名門である足利氏を優遇し主従関係ではなく、同格の客分扱いとすることで徳川氏の権威付けに利用する意図があったものと考えられる。そのため、諸国の大名が参勤交代の際に喜連川を通過する際にも、この地の住民は土下座をする必要がなかったり、街道筋の住民に課されていた助郷の一部を免除されたり等、当時の街道筋の他の宿場町とは様相が異なる特殊な宿場町であった。
08:05 龍光寺
喜連川本町バス停のすぐ近くにある
   【足利家歴代の墓所
 この寺の創立者は、足利尊氏であって東勝寺と号し下野国の安国寺であった。
 喜連川左馬頭頼氏の時、慶長6年(1601)父頼純逝去されたので、当山に葬り戒名の龍光院殿全山機公大 禅定門の頭をとって龍光院と改称した。以来足利家の菩提所と定めて寺領50石を賜り喜連川藩公代々祈願追善の香華の院であった。
 墓所周囲は築堤を廻らし総面積4百平方米、石塔54基のほか石燈籠があり、14代に亘る藩主の御台所嫡子等の墳墓にて城下町喜連川の代表的文化財として旧態を保持している。
<喜連川・龍光寺境内にある足利家歴代の墓所> 
3・11東日本大地震で倒壊した足利家代々の墓石や灯篭     龍光寺境内にある芭蕉碑
ちちははをふところにして初詣」芭蕉
08:15

御用掘
水深50cm、幅1m程の水路に勢いよく水が流れている。
4−50cmもある大きな鯉が泳いでいる。ウマソーだ!この付近、昔の武家屋敷の面影を残すとても良い風景だ。

<御用堀> 堀には大きな鯉が泳いでいる。ウマソー!
08:25

お丸山公園
喜連川城の面影を残している。

<お丸山公園> 古い民家の壊れた門から美しい花々が見える
08:35

道標。
以前は台町交差点の角、本来の位置にあったらしいが、今は交差点脇の集会場のその脇に、「仕方ない、置いといてやるか」って感じでかろうじて残っている。


        道標
江戸時代参勤交代で賑わった奥州街道には、要所に道標を見かけます。
 お地蔵さんも道標として役に立ったそうです。旅をする人達にとっては貴重な道案内だったことでしょう。
「右・奥州街道 左・在郷道」
08:40

フタバ食品・喜連川工場。
突然大きな工場が出現する。内川の直ぐ側にある。
橋を渡るとダラダラとした上り坂になる。

08:50 オオデマリ、シャガ、クレマチスなど満開の花が声援をくれる。ファイトッー!
<オオデマリ> <シャガ>
<クレマチス> <シラー>
<オダマキ> <ミヤコワスレ>
09:00

菖蒲沢公園
もうすぐ峠。近くに民家も何も無いこんな山の中に、大きくてりっぱな公園がある

09:15


両側は雑木林で何の展望も無い。道路傍には大量のゴミが捨てられている
峠からは南和田に向かって、ダラダラと下り坂が続く

09:35

南和田の農村地帯
遠くに低い丘を連ねる田園風景。水稲が10〜15cmに伸びている。

大谷石の塀があちらこちらで崩壊していた
3・11の東日本大震災の後の余震で多くが壊れたという。
09:45

下河戸
周囲は田園風景。
まるでお城の門のような玄関を持つ農家が続く。この付近では3月11日の大地震には震度「6」だったそうだ。
いたる所で壁や瓦屋根が落ちている。

09:52

下河戸交差点
曽根田地区、ここで旧陸羽街道は右に曲がる。
この付近にはやたら大きな農家が多い。
オオデマリ、モッコウバラなどたくさん花が咲いている。
「旧奥州街道は右折です」の大きな看板(下の写真)

ここで右折する。
最近は街道歩きする人が多いと地元の人が言う。
<モッコウバラ>
10:00 道祖神
<なんとも可愛い道祖神>
10:03 江川を渡る(宮下橋)
10:10 源氏ボタルの里入口
<見渡す限りの麦畑> <ポピーの花>
10:15

ケシの花が満開、美しい。
この付近でもブロック塀が倒れている。(ゲートボール場)
明治天皇御休み処

10:35 ほほえみ仏像
10:37 大田原市に入る
10:50

3基の庚申塚
ゴルフ場入口、金網の中に並んでいる。
この付近には9箇所ものゴルフ場がある。

11:00

平山「キラリ直売所」
少し早いがここ農産物直売所で昼食とする
ウマーイ!こんな美味い食い物(=下の写真)がこの世にあったのか!
街道歩きには絶対「焼きそばとおでんのセット」で決まり!

農産物直売所の売店でソースヤキソバ(300円)とおでん(100円)の昼食。バカに美味い、本当だ!
街道歩きには、なんたってソース・ヤキソバに限るのだ!
東京へお土産として持ち帰りたい。

栃木イチゴが魅力、安い
小粒だが30x25X10cmの箱にビッシリ入って700円。ただし「ジャム用」と書いてある。
ウマソー!
東京へ持ち帰りたい。

11:30 佐久山前坂交差点
11:40 佐久山市、日本書道界の大家・・・・・

   豊道春海翁顕彰事業(上段左の写真)
 大田原市では、市出身の偉人の顕彰事業を実施しております。
豊道春海翁は、この地佐久山出身で、明治から昭和にかけての日本を代表する書家であります。大田原名誉市民第1号であり、文化功労者にも選ばれた春海翁の功績を称え、これらを後世に伝えるため、没後40年の節目の年に顕彰碑を建立いたしました。

   平成22年2月24日

11:52

正浄寺
随分と偉そうにしているお寺(上の写真)

11:55 箒川・岩井橋を渡る
12:15

吉沢
立派な山門のような玄関を持つ農家が続く。
壁の所々には亀裂が走っている。
中はただ広い農家の中庭

<立派な門構えの民家>
12:20

親園(ちかぞの)交差点
空模様が怪しくなってきた。
左手前方に那須連山が展望できる

12:30

薬王寺
与一の松(下の写真)
小さな雨が降り出した。カミナリも鳴り出した。

薬王寺
  <与一の里名木選>

名  称;国井宅の赤マツ

所在地;親園566 国井宅

目通り周囲;1・70メートル

樹 高;7・00メートル

推定樹齢;約200年

選定理由;古木

12:40 町初碑
   史跡  町初碑
 
碑は、高さ55センチメートル、周囲93センチメートルの自然石で
    表面に「此町初寛永4卯 年」
    裏面に「国井与左衛門」と刻されている。
 この碑は三代徳川将軍家光の寛永年間(1624−1644)に奥州街道筋に八木沢部落が開かれ、それを記念 しての建立であろう。国井与左衛門はこの地の名主役をつとめ、代々与左衛門を名乗った。
 この寛永4年(1627)は「ひのと卯」であることから本碑は後年の建立と思われる。この寛永4年を奥州道中の開通の年とみる向きもあるが、そうではなく、これはあくまで町初めの年である。いずれにしても町初めの年を石に刻し、その起源を明らかにしている点、歴史的価値は高いものである。
       昭和43年2月15日指定
           大田原市親園512    国井謹一
12:45 百村川(もむら)
12:50

浅香
カミナリが鳴り出した。ファイトーッ!

13:05 馬頭観世音
13:13 浅香3丁目交差点
郊外型のパチンコ屋さん
この平日の昼間、大きな駐車場に沢山の車が並んでいる。
13:30 大田原・薬師寺
     【薬師堂(やくしどう)
 寛政5年(1793)再建とされ、堂内には江戸中期の金剛力士像が2体(彫刻)ある。境内には貞享元年(1664)の建立の7重の塔がある。基礎は凝灰石、塔は安山岩で作られている。高さは4.85m。ほかに五重の舎利塔もあり薬師堂の本堂を含めて4件総て市の有形文化財に指定されている。
有形文化財  薬師寺・七重塔
     昭和37年9月25日指定
     大田原市中央1−13
     薬師堂境内
     管理者 不退寺
 薬師堂境内にある七重塔は、貞享元年(1684)建立で、基礎は凝灰岩、塔は安山岩で造られている。基礎は一辺を1・4メートルの方形のプランの上にもう一段の基礎を加えその上に塔身や屋蓋は方形プラン、塔心は円形プランを積み上げたものである。地上現存の全高4・85メートル(形式からみて建立当時は相輪部を具備したものと考えられるが最上部の九輪を欠失している)あり、当地域付近の古石塔中最大のものであり、まさ製作も江戸時代中期のものとして優秀である。
 塔心には次の銘文が刻されている。
    奉建立 二世安楽所 雨薬山医光寺
13:45 金燈篭
     【金燈籠】(かなどうろう)
 文政2年(1819)に、町内安全の祈りを込めて建立された金燈籠。欠かさず灯され、旅人や町人の目安となった。
               <金燈篭>
             平成3年12月19日  大田原市
    【大田原宿】(おおたわらしゅく)<栃木県大田原市>
 天文14年(1545)、大田原資清が大田原城を築いたときは16戸という寒村であったが、しだいに商工業者が集まり、ついには旅籠が40数軒という大きな宿場に発展。大田原藩は中世以来の所領を幕末まで守り通した数少ない大名家であった。
13:50

大田原城跡
3・11の大震災の影響で石造りの階段がいたるところで崩落している
天気は回復したが、次の宿場の「腰堀」までは約13kmほどある為、今日の前進はここまでとする。
大田原神社境内の崩壊が随分と酷い。
公園前のバス停で「JR西那須駅」行きの東野バスをを待つ

      大田原城跡   昭和36年12月8日指定
  天文14年(1545)大田原資清によって築城され、町島水口より移り、以来明治4年(1871)の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城である。東西210メートル、南北327メートル、面積9.1ヘクタール。本丸、二の丸、三の丸に区画され、この外北・西両曲輪・馬場・作事場等築城法にかなった防御を第一とした要塞の地である。明治5年(1872)兵部省に引き渡され、取り壊された。
 慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原の前、奥羽の情勢からこの地を重視して城の補修を命じ、さらに徳川三代将軍家光は寛永4年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。文政8年(1825)には火災によって焼失したが、同元年新たに造営した。戊辰の役には西軍の軍事拠点となったために、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城をまぬかれた。
  明治19年長野県渡辺国武(大蔵大臣)の所有に帰したが、昭和12年嗣子千冬(司法大臣)これを大田原町に寄贈したので、公園として整備し、市民の憩いの場所となっている。

    大田原神社(おおたわらじんじゃ)
 大田原藩によって創建された。現在も、大田原の総鎮守となっている。参道には、市の指定文化財の常夜燈が一対ある。
                  <大田原神社境内>
              境内の石階段や鳥居など到る所が崩壊していた
14:48

公園下発東野バス

15:00 JR西那須野駅
15:21

JR西那須野駅発
JR(西那須野=東京) 2,520円

16:16 宇都宮駅
19:15

新宿駅着
今回は足に豆が出来ないで済んだ。良かった!

20:00 自宅帰着
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