【奥州街道】 

 徳川家康は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に勝利し、天下人となり「五街道」の整備に順次着手し、奥州道中は慶長7年(1602)から取り掛かりました。但し、五街道に制定された奥州道中は青森迄ではなく、下野國白河迄です。
 五街道は幕府の道中奉行が直接、管轄した街道です。
 白河以北の街道は仙台藩、南部藩が管轄、整備した奥州道中なのです。家康の死後,その亡骸が日光に移されてからは江戸日本橋から宇都宮間は「日光道中」と呼ばれるようになりました。奥州道中は日本橋から宇都宮迄は日光道中を踏襲します。
 宇都宮から白河間を奥州道中と呼ぶようになりました。

 (奥州道中と日光道中)
 家康が当初、「五街道」の整備に着手した時の奥州道中は江戸日本橋から宇都宮宿を経由して白河に至る道筋を指しました。そして日光道中はこの奥州道中の宇都宮宿から鉢石宿間の道筋が日光道中とされました。元和3年(1617)日光東照宮が完成すると、日本橋と鉢石間は日光道中となり、宇都宮と白河間が奥州道中と逆転しました。


第4日目
大田原宿→白坂 →白河→(自宅)

月 日;

7月10日(日)

区 間; 芦野〜白坂〜白河
時 間; 6時間10分
費 円; 13,330円
芦野ホテル代 10,010円、 特急券(新白河=東京) 1,900円。
ドリンク @150*5=750円、 京王線 190円、京王バス 200円

歩 数;

34,081歩

どなたかぁ、一緒に街道を歩きませんか?・・・楽しいと思いますょ、きっと

08:10

芦野温泉ホテル発
 街道歩き(=旅人)には少々もったいないが、とても快適で贅沢なホテルだった。もう一度訪れたい。特にここの薬草風呂が身体にとても良いようだ。入浴中に身体の中心部分が痛くなるという不思議な温泉だ。
 今日も暑くなりそうだ。芦野から白河宿までは飲み物のスタンドがほとんど無いから水分を充分に持参するようとフロントで勧められる。持参した温度計は既に気温31度を指している。街道歩きに飲み物が手に入らないと大変だ。

08:25 奥州街道へ戻る(ホテルからは約800m)
  【芦野氏陣屋跡】・町指定文化財
 通称「御殿山」または「桜ヶ城」「芦野城」と呼ばれている、芦野氏の近世の居城(陣屋)跡である。奈良川の東岸にあり、芦野の町なみを見下ろす丘陵上に位置している。面積は約3haで、現在は山林と公園になっている。
  【高野槙(コウヤマキ)】・県指定文化財
 芦野氏陣屋跡に二の丸跡があるが、その東方の郭の一角に高野槙があり他の樹木を圧倒してそびえている。樹高は約24m、目通り周囲は約5m、推定樹齢は400年〜500年と考えられている。高野槙としては当地域きっての巨木である。
08:30

国道294号
昨日はここまで来て引き返す。

08:37

芦野・丁子屋
名物のウナギ屋、この時間では店は開いていない。
江戸時代から続く老舗のウナギ屋である。

<江戸時代から続くウナギの店「丁子屋」>
08:50

新町地蔵尊
近くに遊行庵がある。

<新町の地蔵尊> <遊行庵>
【遊行柳】
 室町時代の文明3年(西暦1482年)に、遊行上人がこの地に立ち寄った際、柳の精が現れ、上人から十念を授けられ、成仏したという伝説から「遊行柳」と呼ばれるようになったという。江戸時代・元禄の頃、俳聖松尾芭蕉が訪れ「おくのほそ道」に記述されてから一躍有名になった。この柳の傍らに西行、芭蕉、蕪村の歌碑、句碑が建てられており、今なお訪れる人は多い。
09:00
那須町峯岸
大黒天の石碑
<大黒天>
<古いミシンや道具を売る店>
09:04

愛宕神社
とても急な石段があり、おまけに3・11の大震災で階段が湾曲している。危なくてとても登る気が起きない。

<愛宕神社>
いたる所で石段が壊れている
<べこ石>
  【べこ石の碑】(上段右の写真)
 この碑は嘉永10年(1848)10月に芦野宿の問屋をつとめた戸村右内忠怒が撰文建立したもので、全文19段、約3、500文字の文字を刻した碑文である。
 
長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。
 この碑は、自然石に炎帝神農氏の姿か、昔時この地方でも牛を「べこ」と称し石の形が臥牛に似ているための呼称と思われる。
 この碑文を通して幕末期の民情風俗や社会、経済及び道徳思想を知る歴史的文献として記帳である。
           那須町教育委員会
09:06

べこ石の碑(上段写真・右)
気温35度

09:25

板屋の一里塚
日本橋から44里

  那須町指定史跡 【板屋の一里塚】
 奥州街道(陸羽街道)は「徳川実記」によると、慶長9年(1604年)5月に開通したものと記されている。その年に徳川家康は諸国に命じて東海、東山、中山の諸道を修理させ、一里塚を築かせたという。当町には南から、夫婦石、板屋、泉田の3箇所がある。板屋の一里塚は、日本橋から44里(176キロメートル)目のもので、近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえないが道の東西2箇所に残存し、当時の面影を残している。
         那須町教育委員会
<諭農の石碑> <板屋の>一里塚>
  【諭農の碑】 
 
板屋の坂を芦野側から登ると中途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠怒の農民に諭す言句が彫ってある。
 べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から飢餓のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としても貴重なものである。
                              那須町教育委員会
09:45

高瀬
国道と200m程離れている。
旧道はほとんど車の通行が無い。

09:55

国道と合流
白河の関跡へ8・1kmの表示

10:00

ドリンクスタンドがあった!
この街道筋には確かにドリンクスタンドが非常に少ない。リュックのドリンクを先に飲み入れ替える。
国道から脇の沢沿いに民家が点在している。
バスは午前1便、午後1便のみが通っている。
国道には一般の通行が激しい。
気温34度

10:25

寄居・興楽寺
暑いよー、人殺しー!

<豪壮な古い屋敷>
10:37

泉田の一里塚
高さ4m、幅8m
一里塚の記念品として残っている、って感じ。

<泉田の一里塚>
  【泉田の一里塚】
 旧陸羽街道沿いの本町内に一里塚が3箇所あり(夫婦石、板屋、泉田)その最北端に当たるのがこの一里塚である。
 一里塚は、始め徳川家康が天下に命じて築かせたが完成したのは慶長9年(1604年)徳川2代将軍秀忠の時で36町を一里として道の両側に塚を築きその上に檜を植えらせ旅人に距離の目安とした。
          那須町教育委員会
10:47

寄居・大久保
住居が7−8軒、まるで死んだような部落である。
堀石場がある。看板を見ると「チェンソーを使ってます」って書いてある。石をチェンソーで切るのか・・・・

<採石場>
10:50

「涌水」、のはずの井戸がある。
少し濁っていて、どんなに喉が渇いていても絶対に飲む気にはなれない。
気温38℃、無風。暑いよー、人殺しー!誰か助けてー

11:25

馬頭観世音の石碑
ここまで長いダラダラして上り坂だった。

11:35

境の明神がある。
峠である。
栃木県と福島県との県境
ここでも石碑が倒れている。
昼食にポカリスェットとカロリーメイトを食う。美味い、実にうまい。街道歩きの昼食はこれに限るのだ!

<境神社(栃木県)>
   那須町指定史跡 【境の明神】
 玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。創立は古く、天喜元年(1053年)4月14日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。

          那須町教育委員会

<境神社(福島県)>
  【境の明神】
 旧奥州街道に面して、陸羽(福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで境の明神が2社並立している。陸羽側の境の明神は、玉津島明神を祀り、下野側の明神は住吉明神を祀っている。
 境の明神の由緒は不詳であるが、文禄4年(1595)に当時白河を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは弘化元年(1844)に建てられた小祠である。
 奥州街道は5街道の一つで、奥州・越後などの諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来も盛んであった。このため道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり、灯篭や碑の寄進なども盛んに行われている。
 境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した灯篭が並び、松尾芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」などの句碑や歌碑も多く建立されている。神社北側の杉林は、別当寺であった和光山豊神寺の跡地で、神仏習合の名残をとどめている。

  【玉津島明神と住吉明神】
 玉津島明神(女神・衣通姫)と住吉明神(男神・中筒男命)は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神と祀る」としている。
          白河市教育委員会

11:50

境神社(福島県)
急に曇りだし、涼しくなったような気がする。

11:55

衣替えの清水。
冷たくて実にうまい。

<衣替えの清水>
冷たくて美味い!
  【衣がえの清水】
 境の明神から少し北にあるこの清水は「更衣清水」ともいい、集落の飲み水になっていたと伝える。かって弘法大師がこの清水で身を清め、衣替えをしたという。
 また、一説には弘法大師が水を求めたが日照りで井戸の水がなかったため、大師が持っていた杖をさすと清水が湧いたとも伝えている。
          白河観光物産協会
12:05 白河の関への追分
12:10 白坂バスストップ
12:15

本陣跡
ここでも震災の被害が大きい。

<戊辰戦争の碑>
  【戊辰の役 古戦場】
 市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応4年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩長大垣等の西軍が大挙して三方から白河を攻めた。東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、閏4月25日、会津兵は一旦西軍を退けたが、5月1日、再び来襲したので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
 戦後両軍は、各々戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
 この白河街道の左曲する南側に、長州藩3名大垣藩3名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平容保の題字の銷魂碑がある。
         白河市教育委員会
12:25 牛頭と馬頭観世音の石碑が並んでいる。
<牛頭観世音(左)と馬頭観音(右)> <遠くに那須連山>
12:40

白河の部落が始まる付近まで峠から下りてきた。
気温36度。ここから市街地が始まる。暑いよー、助けてくれー!

12:50

金売吉次兄弟の墓入口
ここから300mほど離れているため、参拝をあきらめる。

 金売吉次は平泉と都を行き来し、義経とも縁の深い伝説上の人物。
 承安4年(1174)、その吉次たち三兄弟がこの地で群盗に襲われて殺され、皮籠に入れた財宝を奪われたと伝えられる。
金売吉次兄弟の墓入口
この兄弟、一体何者・・・・?
牛若丸伝説の話だとか
12:55 「まほろん」通過
13:00 「願人・・・・」の石碑
13:25 国道交差点
13:30 会津藩士の墓
<会津藩士の墓>
13:50

南湖橋
ここから白河市の中心部

13:55 新町
  【新町】
 
江戸から奥州街道をたどり、白河城下の入口にあたる町が新町です。一番町・二番町・三番町・七番町・九番町の5つに分けられています。
 江戸時代初期、会津領時代の城絵図には「鉄砲町」とあり、初代白河藩主となった丹羽家時代の絵図では「足軽町」とあります。
 このことから、当初は新町が江戸側の防御の役割を担っていたことが推測されます。後に町人が中心になっても足柄屋敷が点在していたのは、その名残と考えられます。
 町名の由来は、「白河風土記」(1805年完成)によれば、新しく取り立てられた町と推測していますが、いつ頃よりこう称さるようになったのかは不明であるときしています。また家数は202軒とあります。
       白河市
  【天神町】
 
江戸からの奥州街道が東に折れた所が天神町です。町の西端の天神山(菅原道真を祀った天神神社の山)が町名の由来と言われています。
 「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は132軒で、職業が分かる文政6年(1823)の絵図では、町屋敷の9割以上が職人と職人で構成され、城下の商業を担っていた町と考えられます。
       白河市
14:05 関川寺
14:20

本陣跡
現在は堀川印刷所
本陣跡らしい雰囲気はまるで無い。
10分ほど前からカミナリが鳴り始めた。小雨も振り出した。
奥州街道歩きが、ここ「白河宿本陣跡」で終わった。バンザイ!

<白河宿本陣跡>
  【白河宿本陣芳賀家跡】
 本陣は、江戸時代の大名、幕府役人などの宿舎となる旅籠である。白河宿の本陣は、この地にあった本町の芳賀源左衛門家が代々務めた。明治9年(1876)明治天皇の第1回東北巡幸の際には休憩所とされた。本陣芳賀家の表間口は当時約16間余り(約30m)であった。
<JR白河駅> <白河小峰城>白河駅のすぐ隣にある
   【白河駅の駅名由来】
 白河の地名は、古関跡の下を流れる「白川」という小川に由来するという説と、アイヌ語で”自陣”を指す「シラガー」という言葉が転訛したと言う二つの説があり、古くは「白川」と表記されていました。
 その名が歴史に登場するのは、天正天皇の霊亀2年(716)、この地方に白川、石背(いわせ)、会津、安積、信夫の5郡からなる石背国が置かれたことが初めと思われます。また、聖武天皇の神亀5年(728)には「白河軍団」が置かれたとあり、このとき「白河」の地名が世に出た始めと言われております。
 そして文治5年(289)、結城朝光氏が奥州藤原氏討伐の功により,源頼朝から白河庄を与えられ、さらに興国元年(1340)、結城氏5代・親朝が小峰ヶ岡に土塁の小峰城を築き、市街地の形態が整ってきました。
 「都をば霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」(能因法師/後捨遺和歌集)の古歌も、白河を有名にしたもののひとつです。
 この地名の由来を受けて、明治20年(1887)7月16日、東北本線が当地に開通して時、白河駅が開業しました。
15:00

JR白河駅発

15:18 JR新白河駅発新幹線
16:45

東京駅着。早い、新幹線は早すぎる。

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