| 08:00 |
浜松駅前ホテル・ルートイン出発
昨日とうって変わって、朝から雨が降り出した。迂闊にも今回は雨天の準備を全くしていない。仕方が無いので、コンビニで安いビニール傘を購入する。昨日までの疲労はそれほど残っていない。
再開発された浜松駅近くでガイドブックを片手に旧東海道の痕跡を探しながら歩を進める。
近代化した風景の中で東海道を正確にトレイルするのは実に苦労が多く、「開発とは東海道を破壊すること」と同意語のようだ。せめて道標だけでも建ててほしい。 |
| 08:25 |
連尺交差点。東海道はここで直角に左折する。
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| 08:35 |
成子交差点
ここで直角に右折する。
一旦、「雄踏街道」に入る。
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| 08:50 |
| 賀茂神社 |
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| この付近、旧東海道と現在の地図がさっぱり不明である。 |
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| 09:20 |
八丁縄手 |
| 09:25 |
一里塚(*)
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【一里塚跡】
「江戸幕府が日本橋を起点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604)とされる。
天保年間の宿村大概帳には舞阪宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立とも「松」と書かれている。
しかし古老の話では大正時代まで一抱え半もある大きな「榎の木」が枝を四方に繁らせていたというから幕末の頃には榎の木が植わっていたと解釈してよいだろう。
なお北側の一里塚は土地台帳に町有地としてわずかに名残りを留めているのみである。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・舞阪町教育委員会
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| 09:30 |
馬頭観音がある。
この付近、「東海道の松並木」の看板がある。たった4本の松、実に心細げに生きている。
松の根本はコンクリートで覆われ今や、松の木の自助努力だけでは東海道筋では生き延びることは出来ない。まるで松が「もぅ、何とかしてよ」って人間に訴えかけている。
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【高札場跡】
「この付近に柱を立てて高札を掲げた高札所がありました。
村の人々に法令やおふれを周知させるために書かれた木札を高札といいます。
明治3年(1870)ごろ廃止されました。」・・・・・・・・・・・・・・・・・可美村教育委員会
可美村文化財保護審議会
【馬頭観音】
「宝冠に馬頭をいただき、憤怒の相をした三面八臂(さんめんはっぴ)の観世音菩薩である。
交通運搬、農耕等のため極めて重要であった馬の供養として結合して、江戸時代庶民の信仰を集めた。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・可美村教育委員会
可美村文化財保護審議会
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| 馬頭観音と高札場跡 |
諏訪神社 |
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| 09:55 |
諏訪神社 |
| 10:00 |
秋葉常夜燈跡
村社 熊野神社
高札場跡
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秋葉常夜燈 |
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| 10:10 |
高札場跡、秋葉常夜燈跡
家のフェンスの中、まるで邪魔者扱いで小さくなっている。
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| 10:15 |
麦飯長者跡(*)
槙の垣根の中にひっそりとたたずんでいる。
もう少し意味と形のあるものと期待していたのだが・・・・
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| 10:20 |
郷社 熊野神社 |
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| 熊野神社 |
麦飯長者跡 |
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| 11:55 |
舞阪見附石垣(*)
本格的な雨になってきた。歩くことに疲れてきた。 |
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【史跡 見附石垣】
「この石垣は舞阪宿の東はずれに位置している。
石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。見附は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに6尺棒を持って番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・舞阪教育委員会 |
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| 12:05 |
宝珠院、仲町常夜燈 |
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【仲町 常夜燈】
「文化6年(1809)に舞阪宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いにより、4年後の文化10年5月吉日にこの常夜燈が建立されました。両皇太神宮、秋葉大権現、津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2・7メートルあります。
なお、西側の石の祠は、秋葉山をまつってあります。ちなみに、ここ宝珠院は、明治6年(1873年)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・舞阪町教育委員会 |
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| 12:10 |
舞阪宿本陣跡(*)
その向かいに脇本陣跡がある。
どこでもそうだが、記念館の説明のおばさんがとても親切だった。
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【東海道 舞阪宿脇本陣】
「舞阪宿は、慶長6年(1601)の東海道宿駅制度設定に伴い開設された東海道五十三次のうち江戸から30番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では人口1,204人、戸数265戸でした。
また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。
脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。
建物は主屋、繋ぎ棟、書院棟で構成され、現構で間口5間、奥行15間ありました。
現在書院棟1棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。
平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保9年戌5月吉日、横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保9年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保9年(1838)の建築であることが判明した。」 平成9年・・・・・舞阪町教育委員会
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説明のおばさんに街道歩きを激励される。(上の写真、右端)
ここから東京へ引き上げるつもりだったが、脇本陣を管理するおばさんのアドバイスを受けて、ここから更に「新居宿」まで今日中に歩くこととする。ファイトー! |
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| 渡船場・本雁木 |
那須田又七顕彰碑 |
常夜燈・後ろは浜名湖 |
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| 12:15 |
【舞阪宿の渡船場、本雁木(ほんがんげ)跡】(上の写真・左)
「江戸時代、舞阪宿より新居宿までの交通は渡船であり、舞阪側の渡船場を雁木(がんげ)といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「げんげ」といっている。
ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の1番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・舞阪町教育委員会 |
【那須田又七顕彰碑】(上の写真・中央)
「那須田家の先祖は豊臣氏に仕えていましたが、大阪の役の後、舞阪の農業を営むようになりました。
又七は天明4年(1784)の生まれで、子供の時から聡明でした。勉学に励み、16歳で舞阪宿問屋場の書記となりました。その後、村役人・宿役人を長く勤めました。
産業振興に努め、海苔養殖の基盤をつくりました。飢饉の時には、私費を投じて救済事業を行いました。
その人望と功績により名字帯刀を許され「袱刀爺爺」(ふくさがたなのやや)と呼ばれました。
寛永3年(1850)66歳でなくなりました。
安政5年(1858)その業績を永く伝えるため、顕彰碑が建立されました」
・・・・・・・・・・・・・舞阪町教育委員会
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| 12:45 |
弁天神社
ここで昼食、うなぎ重(「浜名湖産」とわざわざ書いてあった)、肝吸い、大根と厚揚げ炊き合わせ、フルーツが付いて735円。安い。安すぎて心配だった。その日、うーんとお腹が空いていたから、たしかに美味かった。
店内には芸能人の写真や色紙が壁一面に飾ってある。
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| 14:05 |
JR新居町駅
駅を300メートル程通り過ぎる。 |
| 14:20 |
史蹟新居関跡
関所跡資料館を見学する。
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| ・・・・・・・・・・史蹟新居関跡・・・・・・・・・・ |
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| 14:50 |
JR新居町駅出発
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| 21:00 |
自宅帰着
浜松、静岡、小田原経由で小田急線のロマンスカーに乗り継いで午後9時には自宅にたどり着いた。
普通電車での往復はもう限界である。あー疲れた。 |