第14日目

新居宿から吉田宿まで
月 日; 2009年1月27日(火)、天気;晴
区 間; 新居宿=吉田宿、約18.3km
時 間; 7時間12分
費 円; 費用;合計11,700円
交通費;8,960円(小田急270円、町田駅=新横浜駅290円、新横浜駅=浜松駅8,080円、浜松駅=新居町駅320円)、食料2,540円(朝食700円、チオビタドリンク150円、飲料水450円、ミカン100円、夕食800円、夜食340円)、資料館入館料200円
歩 数; 42,682歩

08:00 小田急線町田駅
通勤通学客で混雑している。小田急線とJRの町田駅は100m程離れている。
08:46

新横浜駅発
新幹線「こだま」号自由席ガラガラという程ではないが進行方向右側に席が取れた。
昨夜までの計画ではこの時間には浜松駅に着いていなくてはならないが今朝は目覚ましを無視してしまった。
薄く、高い雲が流れている。
乗客のほとんどがサラリーマン風、観光客や遊び人風な乗客はいない。
小田原駅近くになって大きくて、真っ白な富士山が見えてくる。

新幹線の中から見る富士山;

夏の間には全く姿を見せなかった富士山
江戸時代の旅人をこの新幹線に乗せてみたい。

「こだま」は静岡県内の6つの駅に止まる。その最後の浜松駅で降りる。

10:05

歩いて14分もかかった大井川、新幹線はあっと言う間に渡りきる。
掛川付近では大きな茶畑が展開する。

10:24

浜松駅
新幹線から普通列車「豊橋」行きに乗り換える。

10:43

新居町駅着
今日は競艇開催日らしい。スポーツ新聞を片手に「競艇場出口」改札口へ大勢の人が向かう。
圧倒的に初老の男性が多い。

10:50

駅前のトイレの中で身支度を調え、早速歩行開始。
快晴、風はあるが太陽の光が暖かい。
直ぐに新居の関跡、ここは前回見学したので通過、その向に「紀伊国屋資料館」がある。
内部は昔のままのインテリアが残されている。
付近には寺町通りがあり、隣海寺、本果寺などやたら寺が多い。
寄馬跡、棒鼻跡それに新居宿加宿それに教恩寺などを見て国道1号線と離れる。

【新居関】
新居関所は今切の関所とも言い、慶長5年の秋、徳川家康が新居の元屋敷に創設したが、その後、津波のため、元禄14年中屋敷に宝永5年現在の所に移転した。
敷地は方約1町、西に大門があって明六つに開き、暮れ六つに閉じた。
常備の武器は長柄10本、弓及び鉄砲各25挺、手鉈取縄三ツ道具などがあった。
女、鉄砲、手負、死人及び首等は証文がなくては絶対に通さなかった。
始めは幕府の直轄であったが、元禄15年吉田城主に移管して明治維新に至った。
今の建物は安政2年の改築で大正10年文部省から保護建造物に指定されたが、昭和25年文化財保護委員会から史蹟として指定され更に昭和30年8月特別史蹟に指定された。   新居町
新居の関跡(全景) 史蹟新居関跡 紀伊国屋 曹洞宗 新居山 隣海寺
【寄馬址】
宿場では公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に100人の人足と100疋の馬を用意していた。
しかし交通量が多い場合は助郷制度といって付近の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。
こうして寄せ集められた人馬のたまり場が寄馬所と呼ばれた。
                          平成16年3月    新居町教育委員会
11:50

浜名旧街道
松並木が続く。

12:25

白須賀宿
火鎮神社

12:40

高札建場跡
江戸時代の掲示板の跡である。

【高札建場跡】
幕府・大名が、法令や禁令・通達を板礼に墨書した高札を掲示した場所を高札建場または、単に建場といい、宿場・渡船場・問屋場など、人の目に付きやすい場所に設置されました。
白須賀宿には、ここ本宿と東長谷に一箇所ずつ設置されていたほか、加宿である境宿村にも一箇所、設置さていました。
13:10 潮見坂(*)
東海道を西から下ってくると最初に富士山が見える場所だそうだ。

坂の下を通りかかった。急におばさん(下の写真)から呼び止められる。
「ちょっと、ちょっと、そこのおじさん、寄ってきぃ!」かなり強引な誘いである。
家の中に案内される。雑多な室内に沢山の布で作ったワラジがある。
東海道ウオーカーには有名な小林末子さん(94歳)である。
手作りのかわいいワラジをいただく。彼女と同居している白い犬がとても人なつっこい。
早速、ザックにぶら下げる。別れがたい思いをするが先を急ぐことにする。

「ワラジおばさん」こと小林末子さん。心に残る出会いの一つ。 いただいたワラジ
13:15 おんやど白須賀
江戸時代、この付近は天領だったそうだ。
おんやど白須賀 潮見坂公園
13:25 潮見坂公園跡
13:35 曲尺手(*)
【曲尺手】(かねんて)
曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割ももっていました。
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりでした。
しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急避難をしました。
13:40 神明宮
13:55 県境、愛知県豊橋市に入る。
この付近から土の色が東国の黒い土から西国の赤土に変わる。
ここから西国に入る。
広大なキャベツ畑が広がる
この付近から土の色が黒から茶色に変わるという。
東海道五十三次宿場制定400周年記念の植樹
14:00 国道1号線「一里山七本松」
14:55 二川宿(*)
二川宿本陣跡 脇本陣
【二川宿本陣】
二川宿の本陣は、後藤五左右衛門が中町の北側で勤めていましたが、再々の火災のため没落し、寛政5年(1793)以降は紅林権左右衛門に本陣職を譲りました。しかし、文化3年(1806)12月の火災により紅林家も再起することができず、文化4年(1807)以降は明治3年(1870)の本陣廃止まで馬場彦十郎が現在地において本陣を経営しました。
馬場本陣は、文化年間の間取図によると間口17間半(約32メートル)、敷地面積は525坪(約1,733平方メートル)、建坪は181坪余(約598平方メートル)と宿内一の建物でした。
現在も享保年間建築の土蔵、宝暦3年(1753)建築の主屋、文化4年本陣開設時に建築の玄関棟、表門が残り近世交通史上貴重な文化財となっています。
豊橋市では、昭和60年本陣当主の馬場八平三氏より本陣敷地建物の寄付を受けたことを契機として、本陣の保存と活用を図ることとし、昭和62年史蹟に指定するとともに、翌昭和63年より3カ年事業で、現存部分の改修及び明治以降取り壊されていた書院棟の復原工事を実施し、江戸時代の姿を再現しました。
平成3年    豊橋市教育委員会
15:05 二川八幡神社(*)
【二川八幡神社】
社伝によれば、永仁3年(1195)鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮から勧請したのが創立と伝えられている。
江戸時代には、黒印地二石を受け、格式はかなり高いものでした。現在では二川の氏神となっています。
境内にある秋葉山常夜燈は、かって二川新橋町の街道枡形南にあったもので、文化6年(1809)に建立されたものです。また、二川宿の人々の寄進による灯籠2対が今に伝わっています。
15:15 本陣資料館
15:30 JR二川駅
17:25 神明社
17:55

豊橋ターミナルホテル
寒い、体が冷え切ってしまった。予定していた予算より少々高いが一刻も早く身体を温める為に急いでチェックイン。

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