第20日目
亀山宿→関→坂下→土山→水口

月 日; 2009年5月25日(月)、天気;晴
区 間; 亀山(亀山第一ホテル)〜鈴鹿峠〜水口(あやの旅館) 約26.5km
時 間; 10時間30分
費 円; 費用;合計7,800円
昼食850円、ドリンク550円、旅館代6,400円
歩 数; 51,200歩

07:30  亀山第一ホテル出発
07:35 

武家屋敷
旧い武家屋敷が数多く残っている。

<亀山城下のこの付近には侍屋敷跡が多く残っている>
【侍屋敷遺構加藤家長屋門】(市指定文化財)
 加藤家は亀山藩主石川家家老職(六百石)を務め、延享元年(1744)石川家の備中松山から亀山への移封に伴い、現在地に屋敷地を与えられた。
 長屋門などの建築年代は確定できないが、幕末までに数度の改築をうけており、江戸中期以降の建築と考えられる。明治以降、建築の大半は移築もしくは破却され、現在は母屋の一部、長屋門、土蔵、稲荷社を遺すのみとなったが、武家建築の様式を今日に伝える貴重な遺構である。
 平成2年に長屋門、土塀の修理工事が行われ、幕末時の姿に復原された。
08:00  京口門跡
【京口門跡】
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる左岸の崖上に築かれた門である。
亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされる。
京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の進入を防いだとされる。
    「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」
と謡われるほどであった。
08:05 

光明寺
風はあるが、青空と乾燥。実に気持ちがよい。

08:15 野村一里塚
【野村一里塚(国史跡)】
 
慶長9年(1604)徳川家康の命により、当時の亀山藩主関一政によって築造されたと伝えられる。本来は道の両側に塚があったが、大正年間に南側の塚は取り払われ、現在は北側のみが遺されている。塚上の樹木は椋で、南側の塚には榎が3本植えられていたと言う。かっては南北両方の塚に巨樹が繁り、その遠望は楼門のようであったと伝えられる。
 県下12ヶ所の一里塚のうち唯一現存するもので、我が国交通史上貴重な遺構として、昭和9年国史跡に指定された。
08:30  布気神社
鳥居から本殿まで何十基もの燈明が並んでいる。
08:45 

史蹟大岡寺畷
近くに小川が流れる。なんの変わりも無い草原、ぼつぼつ亀山が終わる。
東名高速道路のICが近い。土手沿いの桜に付いているサクランボが黒く色付いている。食べるとまだ苦い。
タンポポと遠くには鈴鹿の山並みが望まれる。

09:10 

関宿入口
風がますます強くなった。関のもたれ松

<関宿;街道には電柱が無く、まるで時代劇のセットのように昔の面影が色濃く残っている>
【関の小萬のもたれ松】
 
江戸の中頃、九州久留米藩士牧籐左衛門の妻は良人の仇討ちを討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿一女小萬を産んだ後、病没した。
 
小萬は母の遺言により、成長して3年ほど亀山城下で武術を修行し、天明3年(1783)見事仇敵軍太夫を討つことができた。
 この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくして、もたれたと伝えられる松があったところから「小萬の
またれ松」とよばれるようになった。
 
関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足」(鈴鹿馬子唄)
     平成6年2月 教育委員会
09:20 

東の追分

【東の追分】 亀山市関宿重要伝統的建造物群保存地区   昭和59年12月10日選定
 
関宿が歴史に登場するのは7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっている。慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられた。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされる。(東海道宿村大概帳)
 
鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄した。
 
ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっている。江戸方への次の宿は、亀山宿である。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれている。
09:40  関宿高札場
福蔵寺
たいそう立派なお寺。
【高札場】
  高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所である。
  関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現・関郵便局)にあった。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期においては本陣の役割を果たす施設であったが、関宿には本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていた。
  関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、枡形上の土塀にかこまれており、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていた。
 「東海道宿村大概帳」によると、関宿高札場には8枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわるさまざまな規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などだった。
 明治時代になると、各地の高札場は撤去されるが、関宿の高札場も、明治10年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀窓も含めてすべてが撤去されことがわかる。
09:45 

地蔵院
木造の立派なお寺である。

09:47 

田中屋
旧い民家。

09:99  関宿西の追分
10:20  車とトラックの往来の激しい国道1号線を一路「鈴鹿峠」へ向かう。
10:25 

筆捨山
江戸時代ここは有名な景勝地だったそうだが、特段変わったこともない。
現代では、この程度の風景は全国どこででも見られる・・・・?

【筆捨山】  昭和53年9月22日 
 
東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高289mの山である。
 もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日書き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。
 江戸時代から名勝として世に知られ、東海道を往来する人々は、対岸の筆捨集落にある茶屋から四季折々の景色を楽しんだ。
 歌川広重の保永堂版「東海道五十三次 阪ノ下 筆捨山」をはじめとして、浮世絵での坂下宿はほとんどが筆捨山を描いている。
 浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝は無く、近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである。
                 平成19年3月 亀山市教育委員会
10:45  沓掛
国道1号線から離れた、とても静かな集落。
11:00 

鈴鹿自然の家
昔の小学校の校舎を利用した学習センター

11:15 

松屋本陣跡(坂下宿)
国道1号線と平行した旧東海道。静かで、人の気配がまるで感じられない集落である。

11:18 

大竹屋本陣跡
すぐ後ろが茶畑。いよいよ鈴鹿峠が近づいた。

11:40  片山神社
11:55 

鈴鹿峠(土山宿)
ここから近江となる。滋賀県に入る。
「是より京まで17里」ようやく鈴鹿を超えた。ここまで来ると東海道を歩き通す自信をようやく得ることが出来た。
付近は広大な茶畑と山林で人家は全くない。
苦しい登り坂は終わり、ここからは下り一方だ。

【鈴鹿峠】
 
鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道」(あすはみち)と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。
 
八町二十七曲といわれるほど、急な曲道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立烏帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠と並ぶ難所であった。
 
また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てていかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。
 
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。                  鈴鹿国定公園  環境省・三重県
12:03 

万人講
石を奇妙にかさねたモニュメント。
ここは滋賀県甲賀市(KOKA City)と書いてある。

【万人講常夜燈】
 
万人講常夜燈は、江戸時代に金比羅参りの講中か道中の安全を祈願して建立したものである。重さ38t、高さ5m44cmの自然石の常夜燈で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。
                       平成14年3月       土山町教育委員会
12:10  国道1号線に合流する。
車がひっきりなしに行き交う。
12:25  熊野神社
12:35  十楽寺
12:40 

土山宿
東海道鈴鹿山中

12:50  山中一里塚
【土山宿問屋宅跡】
 
近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり、庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋の他に年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。
 
土山宿は、東海道をはさんで北土山村・南土山村の2村が並立する2つの行政組織が存在した。土山宿の問屋はこの両村をまとめられ宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。
                     平成14年3月   土山町教育委員会
13:05  猪鼻村
13:15  土山町蟹ヶ坂
13:30 

田村神社
「道の駅」がある。食堂で「駅長スペシャル 肉うどん、ご飯、たくわんのセット」を食う。美味い、実に美味い!こんなに美味いもんが世の中にあったとは!850円

14:07  土山宿
14:20 

旅籠 大槌屋跡
東海道一里塚跡

【一里塚跡】
 一里塚とは、江戸時代街道の両側に、1里(約4キロ)ごとに築かれた塚で、江戸日本橋を起点として整備され、本町域では泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在した。
 塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印とした。行程の目安となり、また日陰を与えてくれるものとして親しまれたが、明治維新後は撤去されてしまった。
14:25  白川神社
14:30  二階屋脇本陣跡
14:40 

大黒屋本陣跡
高札場跡

15:45  反野畷
16:35  一里塚
16:40  街道をゆく
【街道をゆく】
 
古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。
 東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。
16:55  八坂神社本殿
17:15  水口宿田町
JRの駅があるが、ホテルの類は全く見あたらない。こんな時間帯に宿が見つからないと、とても不安になる。
17:20  水口宿
【東海道の松並木】
 
江戸時代東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行った。並木や風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒したのです。
 街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録があるほどだったが、先の大戦を境にして、その多くが失われた。
 水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われる。
17:25  高札場
18:00 

あやの旅館
ラーメン店を改造中の関係者に案内され旅館を紹介される。
両足の小指に大きなマメが出来ており、左足からは出血している。右親指のツメが赤黒く変色して歩くたびに痛い。今日の鈴鹿峠越えはやはりきびしかった。

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